飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2024年3月1日

岩佐 眞 (淨)

第141話 名号とは何か?

 真宗門徒として少し聞法して行きますと、私たち一切衆生を救おうと誓われた四十八願は、誓われたままではなくて、「その本願は成就したのだ」と、『本願成就』ということが強調されていることが分かるように思います。
 そうしてまた「如来廻向」という言葉で表現される、本願を成就して阿弥陀如来に成なられた「仏さま」の大きな慈悲のお心に触れるようにも思うのです。
 ここに、有名な「信心獲得しんじんぎゃくとくすというは」の御文、『御文』五帖目5通があります。
信心獲得しんじんぎゃくとくすというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり」
というお言葉があります。南無阿弥陀仏すなわち念仏の、すがたをこころうる、のだと云うのであります。
 私は永い間、この言葉の意味が分からずに、69才になってしまいました。そうして今、また74才となっています。
 しかし、親鸞聖人の御自釋ごじしゃくという、御自分で解釈された御文ごもんがあって、「至心釋ししんしゃく」というものがあります。(『真宗聖典』P225)
 そこには、「如来の至心ししんをもって、諸有しょうの一切煩悩・悪業・邪智の群生海に廻施えせしたまえり。すなわちこれ利他りた真心しんしんあらわす。―(略)― この至心はすなわちこれ至徳しとく尊号そんごうをそのたいとせるなり」とあります。
 私たちに廻施・廻向された如来の真心まごころ=至心は、南無阿弥陀仏という名号を体にしている、と言って居られるのであります。
 言い換えれば、念仏・名号の中身は、如来の真心まごころであると、言われているだと思います。
私たちが何の不思議もなく、字で書かれた「名号」に素直に手を合わせることができるのは、いま、如来の真心に手を合わせているのだということを、私たちの深い処で知っているからなのでありましょう。

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