2024年1月1日
佐藤 義晃 (了德寺住職)
第137話 覚悟
私が好きな詩に次のような詩があります。こうありたい、こう生きたいと思っている詩です。
苦しみも悲しみも
自分の荷は自分で背負って 歩きぬかせてもらう
わたしの人生だから
この詩は東井義雄さんという方が書かれた詩です。元気でおられた息子さんが急に倒れ、意識不明になられたのですが、何があっても背負っていこうと覚悟していた自分も、息子さんのことで自分の人生をさらに深く考えさせられたことを告白してみえます。そう簡単には背負うといえないわが身であることを、息子さんに教えてもらったと・・・。
自分自身を考えてみても、いただいた命、いただいた境遇や環境を素直にありがたいと感じたことはほとんどないような気がします。一番阿弥陀様に近いといえるお寺に生まれたことを「なんでお寺なんかに生まれたのだろう。」などと、勝手に自分で生まれ出てきたように感じている自分です。自分で背負う覚悟はみじんもなく、都合で生きていることに気付かされる毎日です。
先日テレビを見ておりましたら、19歳で末期の肝臓がんとなり、余命半年と宣告された女性のことが取り上げられていました。どうして自分がこんなつらい目に遇うのだろうと自問自答されていた時期から、何が何でも生き抜くと覚悟を決められるまでの思いを語られていました。「いつ動けなくなるのかわからないからこそ、少しの時間でも惜しんで、生きる意味を人に伝えたい。」というようなことを言ってみえました。命あるもの必ず死と向き合わなければなりません。それは老若男女誰にでも言えることです。しかし、そこまで覚悟を決めている人はほんの一握りです。年配の方は長い人生の中でそのことをじっくり考えられ、その境地を得られる方は多いのかもしれませんが、少なくとも私はまだまだそう思えません。何が起きてもおかしくないとは思っていても、受け入れる覚悟はなかなかできません。「絶対私は生き抜きます。」と力強く生きている彼女が輝いてみえました。
震災にあわれた方々が、その後復興に向けて活動していらっしゃる様子を報道などで見たり聞いたりしておりますと、この女性のように本当に自分のこととして受け止めていらっしゃるような気がして、ただただ頭が下がります。自分は果たしてそのように思えるだろうか。「自分でなくてよかった。」と思うような情けない自分が、いざ苦悩に直面した時、本当に「現実を引き受けて行こう」「自分の荷を背負っていこう」と思えるだろうか。そう簡単には言えないと思います。世界各地で起きている争いは人が起こしていることです。自らの身にそんなことが起きたらと思うと恐ろしくて考えようもありませんが、目を背けないで見つめていかなければならないと思います。
私たちは、自分の身に何か起きなければ本当に感じられないような生き方をしていないでしょうか。自分の身に降りかかってきて初めて真実と向き合えるのかもしれませんが、少なくとも他人ごとではなく、自分の問題として受け止めようと考えていける自分になりたいと思います。
先達はつらい時、苦しい時、うれしい時、悲しい時、ありがたい時、申し訳ない時、その時々に仏様の前に座り、仏様に報告したり、相談したりして、仏様と対話をしてきました。自分自身を取り戻し、何ができるのか、仏様に力をいただきながら、乗り越えて見えたのだと思います。なくても我慢できることの中に幸せを追い求め、それがなくては幸せなど成り立ちようのない大切なことを粗末に考えている私たちがいるのではないかということを改めて考えていきたいと思います。