2023年12月15日
春國 文春 (玄興寺住職)
第136話 すえとおりたる尊敬
「初めに尊敬あり」これは、元専修学院院長をされた竹中智秀先生がよく口にされていた言葉です。私たちは、人生においていろんな人に出会いながら生活をしています。そこに本来お互い敬い合って生きることが願われています。ところが、私たちは自分からみて、年上の人、年下の人、また自分より能力が優れている人、劣っていると思える人など、常に自分の立場を意識し自分と比較しながら人付き合いをします。このことに無頓着である場合は、ある意味差別なく人付き合いをしているように見えますが、人として礼儀知らずとか、生意気だとか、舐めているということになります。
私たちは、なかなか相手のことを無条件に敬い尊べないことが多いのでないでしょうか。
以前、こんなことがありました。※(中略)時間が経ち冷静になってから、今まで学んできた聖教の言葉が頭に浮かんできました。
「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(『正像末和讃』)
つまり私たちは、仏さまの教えをいただいていても真実の心(尊敬する心)で人と向き合うことは難しく、上下、勝ち負け、損得の関係から離れることができず、相手が自分より優れていると感じた時ぐらいしか人を敬うことができない悲しい存在なのです。
さらに、自分がかわいいという立場から外面と内心は裏腹で、上っ面だけ取り繕い自分も他人も誤魔化すような生き方をし、面倒くさいことを避けて自分だけ生き残ろうとして清浄な心(共に生きんとする心)を見失ってしまっているのが、私たちのありのままの姿なのでしょう。
だからこそ、自分も他人もなかなか尊敬し合うことができない自覚に立たしめる仏さまの智慧(念仏)をいただきながら、それでもなお人が人を尊敬し合いながら生きるとはどういうことかたずねる歩みに終わりはありません。
※(中略)の部分は伝道部会にて一部編集いたしました。