飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2023年11月1日

三島 大遵 (真蓮寺住職)

第133話 仏さまに会う

 私たちの亡き先祖は、今どうしておられるでしょうか。

 昔から真宗門徒は、亡き人を「仏さまになられた」と言い習わしてきました。この表現は現在ではあまり耳にすることがありません。「仏さまになられた」という実感がなければ、そのようには表現しないでしょう。ではそう言ってきた真宗門徒、つまり私たちの先祖は、どのような実感をもって「仏さまになられた」と表現してきたのでしょうか。

 我々門徒は、阿弥陀仏をご本尊としています。お内仏に安置されている絵像や木像の阿弥陀如来像は、必ず立っておられます。観無量寿経に表現されるお姿を模し、苦悩の衆生を救おうとされる大悲救済の願心を表されたものであるといいます。つまり、座って私を待ち構える仏さまなのではなく、私に向かって歩み出し、現にこの身にはたらく仏さまだということです。亡き先祖を「仏さまになられた」というのは、阿弥陀仏と同じようにこの私に寄り添い、はたらきかけてくれる仏さまとして実感するからでしょう。しかしそれは本当でしょうか。目には見えないので確認ができません。

 この夏、お盆が来ました。お盆は先祖が帰ってくると言いますが、それらしきものは帰って来られましたか? 私は霊魂の話をしているのではありません。それを見る力がなければ実感できないということではないのです。目には見えないけれども存在しているものは日常にも溢れています。例えば花粉。花粉はなかなか目で見ることはできませんが、私の鼻が詰まり、くしゃみが出るということを通して、確かに存在していると、この身で実感します。

 さて、仏さまも目には見えませんが、確かに私にはたらきかけています。なぜそう言えるか。それは、南無阿弥陀仏の声が私の口から出るからです。南無阿弥陀仏は私一人の中からは出てきません。仏さまのはたらきに遇わなければ出てきようのないものです。それが、この私をして念仏申させるようなはたらきとなって、先祖が私に会いにくる。だから仏さまと呼ぶのでしょう。先祖を思い念仏申されるということは、亡き人は確かに仏様になられたという証明であり、この身を通した実感です。逆に言えば、もし念仏が申されないのであれば、先祖が仏さまになられたと言ってもそれは言葉だけです。私の口をついて出てくる南無阿弥陀仏こそ、聞こえる姿となった、響きとなった仏さまであり、私を導き育む仏さまです。私のこの一声の実感おいて、仏さまに会わせていただくのです。

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