2023年10月15日
井野 了慧 (高山教務支所書記)
第132話 いただく
今住んでいる借家には小さな庭が付いている。おおよそ四畳ほど、猫どころか鼠の額程度である。去年引っ越してきた当初は夏真っ盛りだったこともあり、荒れ果てて一面草に埋め尽くされ手の付けようがないほどだった。別に庭いじりの趣味は無いが、せっかくあるのにこのままヤブ蚊の住処にしておくのももったいない。ちょっと晩酌のツマミでも育てようか…と、今年は手入れをしてみる気になった。
しかし、いざ手入れし始めると、次から次へ伸びる草が、むしってもむしっても、刈っても刈ってもキリがない。平日勤めているとなかなか手入れする暇がなく、思い立って綺麗にしても1,2週間経って気が付くと一面グングン伸びた草に覆われる。作物が植わっているから除草剤を撒くわけにもいかない。ことに、ドクダミは本当にどうにもならない。根を掘り起こさねば根絶できないと聞いて頑張って掘り出し続けたが、むしろ掘り起こしたあたりで細切れになった根っこから生えてくるせいで余計に増えてる気がする。結局「もうどうにでもなれ」と、ドクダミはむしるだけにした。
だが考えてみると、これは困った困ったと言ってる私のほうが、自分の都合だけでとんでもない身勝手なことを言っているのだ。草もドクダミも、別に自然に自由に生えて生きているだけ。それを人間の私が勝手に「邪魔だから」と刈り取って、一方で自分の都合のいい植物を植えて育てる。草の側からしたらこんなに理不尽な話はない。それ以外にも、草刈りの最中にミミズをちょん切ってしまったり、蚊対策で溝に殺虫剤を放り込んだり、自分の勝手ひとつでずいぶんと殺生を重ねている。
しかし「ああ身勝手だなあ」と思ったところで止めればいいかと言えば、そうもいかない。草のない綺麗な庭がいいし、枝豆は食べたいし、蚊はいないほうがいい。ことに、これが農家だと、畑作業をやらないと生活ができないのであって、やはり人間は生きている以上、他の命を奪わずに生きられないものなのだと思う。
そこで大切なのは、いのちを奪わずに生きられないんだから仕方ない、で開き直るのではなく、奪わずには生きられないのだ、相済まないというこころ、そしてそんないのち奪う私たちを見捨てぬはたらきを思い、お念仏申すということではないだろうか。
み光のもと われ今さいわいに この浄き食をうく いただきます
われ今 この浄き食を終りて 心ゆたかに力身にみつ ごちそうさま
真宗門徒にとってお馴染みの食前・食後のことば。これは目の前に食べ物となっているいのちだけではない、それに付随してむしられた草をはじめ、奪わざるをえなかった無数の命に対して、そのいのちをいただいて生かさせていただきます、ありがとうございますという言葉なのだろう。
しかし、今こういう殊勝なことを言っていても、実際に草まみれになった庭を前にするとすっかり忘れてウンザリ気分で草刈りする。ドクダミをむしっているとこのクソッたれという気分になってくる。食事にしたって、「この宴会の食いもんはロクなもんがない」といい加減に突っついて下げさせる。
みなさんは、どうだろう。やっぱりそんなもんではないだろうか。
そんな救いようもない私を「お前、大切なことを忘れてやしないか」と呼び戻してくれるはたらき、それが南無阿弥陀仏だろう。