飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2023年10月1日

三島 多聞 (高山別院輪番)

第131話 葬儀という事

「亡」と「死」とは意味が異なる。亡は、身体が白骨化した姿。そして心からも亡き人が亡くなるのを「忘」という。一方、「死」の字の中の「歹(がく)」の字の意味は、亡くなった人の胸から上の遺骨を表わす。歹の骨を拾ってほうむることを「葬」という。葬式の時、胸から上の遺影を備えるのがそれである。この時、亡き人を「人格」として出遇うという意味になる。歹の右に「匕(ひと)」の字をつける。「歹」(人格)を弔う「匕」を添えて「死」の字になる。つまり「死」とは、亡き人に生者がお参りし、あらためて出遇うという意味になる。「弔」の字も、弓に矢をつがえている形。武装してまで大切な人を野犬から護る形である。葬式をしないということは、故人に人格として出遇う事を放棄したことになる。

 死とは、亡き人に出遇って気づかされ育てられていくことを意味する。阪神淡路大震災の時、毎年一月十七日の日に震源地の長田区に集いお参りしていた青年が、新聞記者のインタビューに“僕は頑張る、いのちを大切にする”と答えた。今、生きてあるいのちの大切さを亡き人から学んでいる出遇いとなっている。大切な人の死は、私を導き活かす大地となっているのである。その死に対し、「縁起でもない」と塩まく人に、人生の気づきようはない。

 先に述べたように「歹」は故人の「人格」を表わす。ここで「法名」をいただいている人ならば、「歹」は俗名で人格を表わすと同時に、諸仏としての「仏格」をも表わすことになる。死葬を南無阿弥陀仏と受ける、ということです。そして南無阿弥陀仏の葬儀は、故人を諸仏として出遇っていくことを意味している。すなわち、次の三点が明確になることです。

 

亡き人はどこへ逝ったか?

“亡き人は南無阿弥陀仏と申さるる世界(浄土)に往生した”

 

亡き人は何に成ったのか?

 “亡き人は南無阿弥陀仏という仏に成った”

 

どうしたら亡き人に出遇えるのか?

“自分が南無阿弥陀仏と申すところに出遇っていく”

 

 念仏に導かれ、より深く有難く出遇って育てられていく歩みが、いつでも、どこでも、気づかされた時に始まっていく。これが亡き人からの真の「遺言」ということです。遺言が活きる道標となるのです。

 ある人が「人が死ねばゴミになる」と言った。亡き人をゴミにして忘れていくのか、それとも、念仏をとおして亡き人を諸仏として導かれていくのか。「葬儀という事」を改めて考えてほしい。

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