2023年9月1日
北條 秀樹 (了泉寺住職)
第129話 こっちの話
この原稿を執筆している今は8月下旬、この法話はアーカイブで残るので、今あなたが読まれているのはいつでしょう?でも、掲載は9月のお彼岸の頃なので、今回はお彼岸について書きたいと思います。
「お彼岸」=「彼の(かの)」+「岸」と書きます。そのまま読めば、向こうの岸、あちら側。お彼岸には私達はお墓やお寺にお参りをしたりはするけれど、でも、お彼岸の主人公は「あちら側」の人。なんとなく、そういう意識ではないでしょうか?
ところが、お彼岸の語源であるインドの言葉のパーラミターという言葉、中国に伝わった際に訳された元々の言葉は「到彼岸(とうひがん)」です。いつの間にか私達の間では「到」という動詞が抜けてしまいましたが、本来は「彼(かの)岸に到る」という意味です。
さて、「彼の岸」という意識では、あくまでも対岸、向こう岸の話ですね。でも「彼の岸に到る」となったらどうでしょう?向こうに至ることができるのはこちら側に居る者です。
これを、7世紀の中国の僧侶の善導大師という方が「二河白道の譬え(にがびゃくどうのたとえ)」という喩えで示して居られます。独り荒野を旅する人、やがてその人の前に火の河、水の河が現れその端は見えない。その川には30㎝ほどの幅の白い道。後ろからは盗賊や獣が追って来る。止まれば死、戻っても死、進んでも死ぬかもしれない。そんな中、こちらの岸から「決心して行きなさい」の声。河の向こうからは、「必ずあなたを守る、安心してこちらに来なさい」の声が聞こえてくる。そんな情景です。
火の河は「止まない怒り」、水の河は「際限ない欲望」、追って来るのは、迷いに引き戻そうとする人間の心。そして、こちらから行けというのは釈尊の声。向こう岸から必ず守ると呼びかけるのは弥陀の声。この喩えの意味するものです。
絶えることの無い欲望や怒りの中、立ち止まることもできない。そんな不安定な日常を私たちは生きています。でも、確かに、送る声、必ず守ると呼ぶ声があるのだと、この喩えは示しています。そして、それを先人がずっと確かめて来ているのが「到彼岸」という時期だろうと思います。
さて、再度二河白道に戻って。その独り歩み続ける旅人とは誰の事でしょうか?
そう、私であり、あなたです。