2023年8月15日
中川 唯真 (教区駐在教導)
第128話 夏と風鈴
高山の地に引っ越して4か月が過ぎた。新しい土地で迎える季節は気づかされることが多い。前任の長崎では7年ほど過ごしたが、比べるととにかく朝晩が涼しい。プール、入道雲、打ち上げ花火、縁日、高山の突き抜けるような夏空に、忙しい中でも私の心は夏模様である。
先日は別院近くの櫻山八幡宮に出向いた。夏の間、8月の末頃まで風鈴祭りが行われ約2,000個の風鈴が飾られている。夜にはライトアップもあり、浴衣を着た方や観光の外国の方など多くの方が涼を楽しんでいた。
日が暮れていく中、風鈴を見ていると夕日と重なり鮮やかな彩りが目に焼き付いていく。時折、風が通り抜けると風鈴が「ちりん、ちりん」と鳴り、景色と合わせて何とも言えない心を揺らされる情景であった。
風鈴は真宗門徒にとても縁が深い夏の風物詩である。「風鈴」の名は一説には法然上人が「ふうれい」と名付けたことに由来するといわれる。その後、現在の「ふうりん」という呼び方が一般的になった。
元々中国で竹枝に吊るして音の鳴り方で物事を占う道具があり、それが日本に入ってきた際に「風鐸(ふうたく)」と呼ばれたそうだ。風鐸の金属製のものを寺院の屋根、四隅等に吊るす習慣が生まれ、これを「風鈴(ふうれい)」と法然上人が初めに呼んだといわれるのだ。その後、風鐸を小型化したガラス製の風鈴が江戸時代に巷で流行し現在に続いている。
今でも風鐸を吊るしている寺院は東本願寺を始め見かけることがあるので、ご興味がある方はお手継ぎのお寺や、観光などで訪れた寺院の屋根をのぞいてみてはいかがだろうか。
さて櫻山八幡宮の風鈴をよく見ると、短冊の所に人々の願い事が書いてあり、風に揺らされ音が鳴るとそれぞれの人の想いが声を上げているようであった。私という風鈴も日々心を揺らされながら、どんな声を上げつつ生きているのだろう。
風鈴の音が鳴るためには風が必要である。本来、風は目に見えないが風鈴の音が鳴ることで人は風の存在を感じ、知ることができる。以前ある方のお話で『教行信証』には「至徳の風」とお浄土からの風が表現されているとお聞きしたことがある。お浄土の阿弥陀さまからのはたらきは、常に私たちのことをおもい、風として吹き抜けているのに、なかなか気づかずに過ごしてしまっている。そのことに日々気づくため、忘れないために折に触れて南無阿弥陀仏とお念仏の声を上げなければならないのだろう。
『浄土論』に、お浄土のすがたの一つとして「種種の鈴、響(ひびき)を発(おこ)して、妙法の音を宣べ吐かん」とあります。生活の中で心を揺らされる情景や事柄に出あった時には、ぜひ南無阿弥陀仏とお称えしてみてほしい。私たちにはたらきを知らせるため、日々味わうために南無阿弥陀仏の音が届けられたということを私は思う。
まだまだ暑い日が続く。風鈴の音を聞きながら、私に届けられている阿弥陀さまからのはたらきに思いを馳せお念仏してみてはいかがだろう。