2023年5月15日
池田 英作 (了泉寺門徒)
第122話 共なるいのちの場
「わたくしたちは、南無阿弥陀仏の信心のもと、同朋とともに迷信を破り差別を超えて、共なる命の場を創ります」
これは「飛騨真宗門徒の信条」の第三条です。この条の最後に「差別を超えて共なるいのちの場を創ります」とありますが、単なる一文として法要や学習会の前に読み上げていたこの言葉について、先日、考えさせられることがありました。
この三月に「水平社宣言に学ぶ」という訓覇浩先生の公開学習会に参加しました。 飛騨御坊真宗教化センター伝道部会の事業の中に解放推進協議会の輪読学習会があり、その一環での公開学習会でした。部落の歴史を学ぶことは、私に知らないことをたくさん教えてくれました。
今までそのことに消極的であったのは、その差別を知らぬふりをしている自分に、後ろめたさや、出来れば関わりたくないという気持ちがあったのかもしれません。
国連サミットでSDGsが掲げられてから、LGBTQや年齢・障がい・人種・民族・宗教などにおいて様々な差別が浮き彫りにされ、メディアにも多く取り上げられていますが、そのどれをとっても自分は差別する側であったり、差別される側であったりします。
訓覇先生は「よく差別発言を追及された人の答弁に「誤解される表現で申し訳ありません。そんなつもりではありませんでした」というが、そんなつもりではないというほど気づかないところで差別の心を持っているのです。また偏見は誤解ではない、正しい知識を得たことで解決できるものではない」とおっしゃいました。
私たちは差別について正しい知識を得たり、差別に気づいたりした時、それはよくないことだと「答え」を出しがちですが、「答え」を出すとそれで終わってしまいます。その差別に気づいたとき、そうであった自分というものの存在に「応え」ていかなければならない、と先生はいわれました。
「差別を超えて共なるいのちの場」とは何か。 水平社の西方万吉氏は 「人間は尊敬すべきものだ」といっています。
差別の反対語は平等ではなく、それを超えて「尊敬すべきものとして、互いに認められる」ことです。
この社会にあって、自分は人やものごとに対して常に尊敬の念をもっているかと問われれば、そうでないことは明らかです。「飛騨真宗門徒の信条」第三条が具体性をもって私に問いかけてきます。