2023年4月21日
澤邊 恵亮 (誓願寺住職)
第119話 清浄なる水
20年ほど前だっただろうか、海外から日本に留学してきた学生に日本に来て驚いたことは何かをインタビューするテレビ番組があった。トイレがきれいだなど驚いたことを話す中で、一人、飲める水で車を洗っているということに驚いたと言う人がいた。車を洗うのにきれいな水を使うということに、「もったいない。でも水が豊かなのだなと驚いた」といわれた。そのことを聞き、そんなことに驚くのかという思いと同時に、その学生がもったいなさ、豊かさを感じたことを私自身は当たり前に思い、そのようなことを感じてなかったなと思わされた。
『仏説阿弥陀経』に、浄土には七宝の池があり、その池は八功徳水でみちていると説かれている。金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、硨磲(しゃこ)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)の七宝の池に、清浄、不臭、軽し、冷(すず)し、軟らか、美(うま)し、飲時調適(飲むとき心地よい)、飲已無患(飲み終わって患いがない)の八つの功徳をそなえた水がみちているといわれる。
この描写を読むと、お浄土は池一つとっても宝でできたきらびやかな世界なのかと思う。しかし、もし私がその池をみたら、銀の池より金の池の方がいいなと思うかもしれない。また、私は瑠璃が一番だとか、珊瑚の方がいいと言う人もいるかもしれない。そうしたら、七宝ではなく、一つの宝とその他の六つになってしまう。
また、八つの功徳をそなえた水は、普段口にする水とそこまで違う水でもない気もする。蛇口をひねれば、きれいでにおいもしない、冷たくおいしい水が飲め、飲み終わっておなかをこわすこともない。そのことが当たり前になってそこに水の功徳を感じることもない毎日を送っている。
様々な宝があっても、この宝よりもあっちの方がいいと愚痴を言い、功徳があってもそれに気づかず、もっともっとと言い、宝にかこまれ、功徳にみちていることに気づいていないのが私なのだと思い知らされる。
しかし、冒頭のテレビ番組や、『阿弥陀経』に説かれる浄土の姿をとおして、気づかなくても、多くのものに支えられ囲まれている私であったと教えられる。