飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2023年2月24日

小原 宗成 (圓龍寺住職)

第111話 故人と繋(つな)がる南無阿弥陀仏

 先日、お歳を召された母親が息子さんを送るお葬儀に遇いました。残される側となってしまったお母さまの心中は察するに余りあることです。このような悲しみに、浄土真宗はどのようにお応えできるのか考えさせられます。

 その上で、お伝えすべきは「南無阿弥陀仏とお念仏申しましょう」という言葉に行きつくのだと思いました。なぜなら、南無阿弥陀仏を称(とな)えることを通して、私たちは亡き方と繋がりを持つことができるからだと思ったからです。

 例えば、あるツアーの観光バスがたくさんの車列をなして目的地に向かうとします。すると、先頭の1号車に乗った人は先に目的地に着き、最後尾の車両に乗った人は後で着くことになります。同じツアーの観光バスなのですから、到着する時間の早い遅いはあっても、同じ目的地に着くことはかわりません。ツアー参加する方々は、皆さん現地で合流することになりますね。

 【南無阿弥陀仏】とは、阿弥陀という仏さまのお名前です。言い方を変えれば、阿弥陀さまそのものでもあります。そして同時に、【南無阿弥陀仏】とは、この例え話のバスのようなものではないかとも思うのです。ずーっと昔から絶え間なく続く、長い長い車列のバス。目的地は極楽浄土です。

 先に亡くなられた方々は、このバスに乗せてもらってお浄土に往(ゆ)かれました。そのバスと同じ【南無阿弥陀仏】が、お念仏となって、今すでに私たちのもとにも届いてきています。私たちがお念仏申すということは、亡き方々と同じバス(阿弥陀さま)に乗せてもらい、同じ浄土への道を往くということなのです。 

 【死】という大きな隔たりはあります。しかし、その【死】を貫いて南無阿弥陀仏というバスの車列は続いているのです。そのバスに乗ることで、故人との繋がりを見いだせるのではないでしょうか。                 

合 掌

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