飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2023年2月17日

白尾 公信 (了心寺住職)

第110話 釈迦の方便と飛騨の方言

 皆さんは「どんびき」と言われて、それが何かお分かりになりますか?飛騨弁で「蛙」という意味です。

 また「阿弥陀様」と言われて、どのような仏様かお分かりになりますか。

 今から三十年以上前、私が京都から高山に帰ってきて、飛騨弁に慣れていない頃の話です。ある時、うちのご門徒の男性(四十代)が「後でうちのおじが寺にかりてくるで」と言われ、しばらくして来寺された方が、その男性のおじさんにしてはあまりに若い人だったのでビックリしたことがあります(おじ→飛騨弁で次男等長男でない人のこと)。

 またある時、お寺の総代会の中で、境内の整備清掃について検討していたら、総代さんのお一人が「そら、はちはんでやらんならんな」と言われ、「おかしいな、うちのお寺は山口町にあるけど、山口の町内の八班には、うちのご同行の家はほとんど無いのに、どうしてその八班で寺の清掃作業をしんならんのやろ?」と不思議に思いました(はちはん→飛騨弁で当然のこととしての意)。方言を使われると、それが何を表すのかが分からなくなることがあります。

 阿弥陀様のお姿は、釈尊の覚りを方便として形に表されたお姿です。しかし、方便という手立てをとられると、私たちには釈尊の覚りが何を表すのかがはっきりしません。では、阿弥陀様はどういう仏様なのでしょうか?阿弥陀様をお呼びする時に「ご本尊」とお呼びすることがあります。本尊とは「私にとって何が本当に尊いことか」を明らかにしてくださるはたらきのことです。私たちには大切なものがたくさんあります。健康、家族、お金、友人……どれも大切なものではありますが、自らの生涯をかけて、何が本当に尊いことなのかを明らかにしていくことが大切なのではないでしょうか?お寺や御坊様に参って、お金が儲かったり、病気が治ったりはしませんが、私にとって何が本当に尊いことかを明らかにしてくださる阿弥陀様にお会いすることができるのです。

「これ、ごてやねさまがたいな、おらまりに何がほっとにうたていことなのか、雪がやなげる頃には、お寺や御坊様に参って、仏様の教えを一緒にいただかんけな」

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