2021年1月1日
三島見らん (吉城組 西念寺)
第11話 ボクが僕であるために
「あれ?おかしいぞ。なにか変だ」と、こころの中で呟いた。外見にはその違和感を相手に悟らせまいと、
とっさに私は考え込む表情をつくる。なぜか言葉が出てこない。ある法話の席での出来事である。
これが私の2020年を象徴している。
2020年ほど思い出のない年はなかった。それはどの業界に身を置いている人であっても同じだと思う。
人の移動は制限され、「三密」がいつの間にか新しい常識となった。
仲間と共に腹を抱えて笑うこともなく、つらい思いを一緒に涙することもなく、
友の新しい発見を一緒に驚いてやることもなかった。
「ひとはヒトがいないと人になれない」と、コロナは教えてくれた。
親鸞という人は、「ともに遇う」ということが肝心だと言った。
ひとは人に遇わないと、一つの課題も見つからないのかもしれない。
単独では笑うことも、悲しむことも、驚くこともできないのが人間、このわたし。
「すべて、いただきものなのだよ」と、コロナは教えてくれた。
仏教には「無常」という言葉がある。この世のものは一つの例外もなく移り変わっていく。
そう、川の流れのように。だが、日頃「常」にあるものだと考えている。いつでも会える、いつでも行ける、
いつでも、いつまでも、と。だから「常」は「当たり前」という意味。
「すべて、当たり前じゃないんだ(無常)」と、コロナは教えてくれた。
コロナの肩をもつ訳ではないが、それはたくさんの「当たり前」を知らせてくれた。
人は他者との関わりの中で自己を確立していく。
その私自身も他の誰かの自己を確立させているはたらきを意識せず有している。
極楽浄土というところには青・黄・赤・白の花たちが咲いているそうだ。
一輪の花の輝きを身に受けた周りの花は、鏡のようにそれを反射させ、自分自身の色の光を放っているそうだ。
そしてその光は永遠に循環されてゆく。あなたの光は私の光に、私の光もあなたの光に。
そのような爽やかな日々は戻ってくるのだろうか。ボクが僕であるために、アナタが貴方であるために、
新しい春の風がボクらの間に吹くことを願うばかりだ。
春よ、来い。遠き春よ。