2023年2月3日
井野 了慧 (高山教務支所書記)
第108話 運
「うっわ、壊れた……」
わが愛車は昭和39年型フォルクスワーゲン・ビートル。基本的に頑丈屈強なクルマではあるが、寄る年波には勝てず、一行目のセリフを吐く羽目になることがたまにある。窓のノブがモゲたとか程度なら舌打ちして部品注文で済むが、自力で対処できない重要箇所に故障が起こると一大事である。そして、だいたいその手の故障は起きてほしくないタイミングで起こると相場が決まっている。ちなみにわが愛車はオーナーの給料日前後を狙ってブッ壊れるのが趣味らしい。
たしかエンジンを下ろしてのオイル漏れ修理大作戦完了の1週間後にクラッチが壊れ、再度のエンジン下ろしが確定した時だったと思う。さすがにウンザリして「あーあ、どうも運が悪いな」と呟いた私に対し、主治医のメカニックは「運がどうの以前にこのポンコツは全体にガタがきてるんだよ。というか前に”何事も原因があり結果があるのであって、運がどうのとかは仏教じゃない”って言ってたの君じゃん。運のせいにしちゃダメだったんじゃないの」
グウの音も出なかった。
年末年始、やたら「開運」「招福」といった運勢にまつわる単語を目にする時期である。「今年の運勢」のような一種の占いもよく目にする。新たな年の初めに1年間の幸運を願うのは、素直な感情だろう。誰だって幸福になりたいし、運良くありたいのだ。
だがこれは裏を返せば、運勢というあやふやなものを頼り、そこに自分の人生を責任転嫁している、いやむしろ、人生を縛られてしまっているともいえる。
テレビの「今日の運勢」やおみくじなど見ると、信じていなくとも何となく気にかかってしまう。これは誰にでもあることだろうと思う。それでその通りにして良いことがあれば、あるいは無視してろくでもない目に遭えば「あの占いの通りだ」「あの占いを無視したからだ」。これはすでに人生の舵取りを握られてしまっているのである。舵取りをあやふやなものに任せ、目先の舵の動きに一喜一憂し、それに縛られる。突き詰めれば、人生全体を貫いていく道を見失わせることに他ならない。
意識すらしないほどに我々に染み込んでいるこんな縛られ体質を、親鸞聖人は
かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ
天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす
(『愚禿悲歎述懐和讃』)
と、「かなしき」ありかたとして嘆かれている。
自分は自分を主体的に生きることができているか、道を見据えて生きることができているか、年始にあたり考えてみたいところである。