飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2023年1月27日

細川隆一 (淨慶寺衆徒)

第107話 「今、いのちがあなたを生きている」

 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマである。

縁あって淨慶寺を継ぐことになり、五年前に同朋大学へ入学した際に掲げてあった法語である。初めて法語と向き合った瞬間であったが、ハッキリ言っておかしな文章だと思ったことを覚えている。しかし、真宗を学んでいく中で私の一番好きな法語になっていった。

文章として「今、あなたがあなたのいのちを生きている」とあれば、そうだねと言えるであろう。「今、いのちがあなたを生きている」とは一体如何なることであろうか。

いろいろな方の著書でも取り上げられていて拝読してみたが、様々な解釈があるようであった。そこで、その問いを考えるにあたって身近な生活に焦点を当てることにした。

その問いからいただけたことは「お陰様」ということではないかと思う。「今、いのちがあなたを生きている」ということは、「今、お陰様で私は生きている」ということにならないだろうか。身近な生活では、衣・食・住においてすべて自分でできているだろうか。糸から着る物を作り、米や野菜を作り料理し、木を切ってきて家を建築してと、自分一人では到底できるはずもない。もっと言うなら、食だけ考えても、土があって水があって米が育ち、育てている人がいて精米してくれて、袋に詰めて売ってくれている人たちがいて、電気があって炊飯ジャーがあってと、考えれば考えるほどお陰様だらけである。今日の昼食は炊き込みご飯であったが、そうなるとさらにゴボウやニンジン、かまぼこなどと、さらにお陰様だらけである。たった今、そういったお陰様でこの肉体に栄養を取り入れることができて生きているのである。生かさせていただいていると言ったほうが適切なのかもしれない。普段は「今、私が私のいのちを生きている」という気になってしまう。しかし、本当は「今、お陰様で私は生かさせていただいている」と感謝の法語ではないかと思う。

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