飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2023年1月6日

三島 多聞 (高山別院輪番)

第104話 永遠の今

「身」という漢字は非常に意味深いことを教えている。この漢字は「いのち」を〝身ごもっている〟ところからできている。

 正面から見た身体でなく、横から見た「身」である。正面から見て、人が妊娠していることははっきりしないが、横から見ると腹が大きく前に出ていて、妊娠していることがすぐ判る。

 母親の身にもうひとつの「いのち」があることを不思議に思って、「身」という漢字ができた。妊婦を指して「身」という。実際、妊婦の腹を見ると、おどろきや不思議の感覚がある。腹がだんだん前に出て大きくなっていき、腹の中で〝動き〟を感ずる時、どんな不思議を感ずるのだろうか。

 自分は、母の腹に身ごもられていた「いのち」だったんだと思うと、この「身」という漢字のでき具合に、懐かしさを覚える。

「命」は辞書によれば、〝天から与えられた〟ものとある。当方の思いを超えて、〝いのち〟を認識したからだろう。妊婦はお腹をなでながら〝お与え〟を感覚していることと思う。そして、身ごもられていた〝いのち〟が世に出て、今、私はここにいる。

 私はいつから呼吸しているのだろうか。腹から出た時から呼吸していると思うのは、考えが個人的だ。母の体内にいる時から呼吸していたんだ。その呼吸は母が私に代わってしていたんだ。それも母の呼吸は血液となって「身ごもるいのち」を生かしていた。母の母はとさかのぼれば、何億年もの昔から相続されてきた呼吸であり、いのちだった。今、私の一呼吸は太古の時の一呼吸と同じである。「永遠の今」とはこのことだ。ここをお念仏の教えでいうと、『安心決定鈔』に
〝すこしこざかしく自力になりて「わがいのち」とおもいたらんおり、善知識「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」とおしうるをききて、帰命無量寿覚(如来)しつれば、「わがいのちすなわち無量寿なり」と信ずるなり〟

 代々かけて身ごもられてきた「いのち」を〝わがいのち〟と限定する時、念仏の「いのち」は、わからなくなる。

PAGE TOP