2022年12月30日
白川 明子 (願生寺住職代務者)
第103話 堂々と無能でいよう
京都にある、東本願寺の「お坊さん養成学校」。そこの職員として働きはじめた頃のことです。初出勤の日、まず与えられた仕事は校舎の清掃でした。何ごともはじめが肝心。前日までの学生気分はリセットし、社会人らしく頑張ろうと意気込みました。
そんな私に、ベテランの先生が声をかけてきました。「俺たちみたいな者が、長い間この学校に勤めていられるのは、どうしてだと思う?」
先生は、いつも部屋着のような服装で飄々とした雰囲気。一見、教師らしからぬお姿に反して(?)、学びに対しては非常に熱い方です。きちんとお答えせねば、と真剣に理由を考えました。
私を待たず、ニヤリと笑みを浮かべて先生は一言。「それは俺たちが無能だからだよ」。新人の私をいたわる気持ちからなのか、それとも自身への捨てゼリフなのか。分かりかねる私に「だから、あまり頑張り過ぎないように」と言葉を残し、先生は去っていきました。ところで、その理由が無能とはどういうこと?
仕事にも慣れてきたころ、この時のやりとりを思い返し、ハッとしました。「私の本心、先生に見抜かれていたのでは!」。とても恥ずかしい思いに駆られたことを、今でもはっきり覚えています。
「がんばり」の裏には野心があったのです。職場で「評価されたい」「ほめられたい」。掃除に精を出したのも、学校への愛着ではなく、「仕事ができる人」「気が利く人」と思われたいから。さりげない自己アピールを欠かさない私を、先生はずっと見ていたのでしょう。先生にとっては何気ない会話だったのかもしれません。しかし私にとっては、自身の底知れぬ闇を知らされた一言でした。
この学校で、繰り返し教えられた言葉があります。「えらばず、きらわず、みすてず」。すべての存在を受け止めてくれる阿弥陀さまの心を表わしたものです。世の中の「できるか、できないか」の評価におびえ、理想とのギャップに苦しみ、自分で自分さえ見捨ててしまう私たちにあって、「○○である」という一人(いちにん)の重さを尊べる世界があるのだと。日常に流されて時にそれを忘れることがあっても、何度でもこの三つの心へ帰って行けばいいのだと。
「それは俺たちが無能だからだよ」。先生があの日伝えてくださったのは、「みんな堂々と無能になりなさい」という阿弥陀さまの声だったのかもしれません。無能だからこそ、愚かだからこそ気づけることが世の中にはたくさんある。そこから開かれてくる、皆を支える大地のような世界をこれからも大切にしたいと思っています。