飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年12月9日

夏野 了 (滿成寺住職)

第100話 「私は何者か」

 園長になって五年目を迎えますが、日々、子どもたちから多くのことを学ばせてもらっています。四月の入園時、手を握って、なかなか離さない我が子を、お母さんは、後ろ髪を引かれる思いで保育園に残し、職場に向かわれます。「ママがいい」「ママがいい」いつまでも母親を追う子。しばらくは、そんな光景が保育園では続きます。私は「ママがいい」と泣く子に、「○○ちゃんは、ママが好き?パパが好き?」と訊いたことがあります。すると、その子は、「パパも好き。ママも好き」と私の期待に反するものでした。パパはお父さんとして大好き。ママはお母さんとして大好き。比べることのできない存在として、二人を捉えているのです。しかし、考えてみるとお父さんが送ってきていれば、「パパがいい」と言うでしょうし、お婆ちゃん・お爺ちゃんだったらまた違ってくるでしょう。そう考えると愚問をしたなぁと思いました。今回のこととは少し離れますが、「比較する」という行為は、人間の持つ癖とでもいうのでしょうか。ものを捉える時、あるいは判断し、結論を出す時に、いつの間にか「比べる」というフィルターを通してものを見るようになっています。物を比べるのはもちろん、人間までも「自分の都合という物差し」で比べています。しかも、「神・仏」までも比較してしまいます。あそこの神様は御利益があるとかないとか言って。自分を神仏より一つ上において「神・仏」までも選んでいる。「お正信偈」の中に「邪見憍慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)」とありますが、衆生には、「邪見」があり、「憍慢」の心が常にはたらいていると言われています。「邪見」とは、真実に背いたよこしまな考え方、「憍慢」は、自ら思い上がり、他を見下して満足する心のはたらきです。これを、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫だと言われています。傲慢の中に身を置き、自分の都合という物差しを振りかざして生きている私に、園児の一言は自分の目を開かせる響きとなって聞こえてきます。

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