飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2021年10月8日

春國 文春 (玄興寺住職)

第41話 頭の下がる世界

私の父が老人施設に入所していた頃、入所者の皆さんがおやつを食べる場に出くわした。ほとんどの方が食べ終えられた所へ、一人の老女が車椅子のまま席につかれた。その日はバナナがおやつだった。職員の方が「〇〇さんおやつやよ。」と勧められた。すると、その老女は先ずバナナに合掌された。その後食されると思いきや「皆さんにあるのかな。」と自分だけにバナナがあたっていると勘違いされ、既に食された方々を気遣い職員に尋ねられた。職員が「大丈夫やよ。」と答えると、バナナを押し頂いて小さくちぎったバナナに再び合掌をして頭を下げてから、やっと口にされた。老女は、バナナを食べ終わるまで同じ事を繰り返されていた。

この場に居合わせた時、ふと地獄と極楽の食事の有様の違いの話が頭に浮かんだ。

地獄での食卓は、腕より長い箸を使って自分だけで食べようとするので、食物を口にすることは出来ないが、極楽の食卓では、長い箸を使って周りの人に食べさせてやる事で食物を口にする事が出来る。老女が最初に発した「皆さんにあるのかな。」という言葉は、自分だけ恵みに合い奪い合うこころではなく、長い箸を使って他人の為に食べさせようとする極楽の食事の利他のこころを感じさせた。

そもそも、私たちは、食前食後に合掌をするように躾けられてきた。しかし、何の為に合掌するのか教えられず、意味も感じることなく毎日の食事(いのち)に向き合ってきているのではないか。

親鸞聖人は、礼拝(合掌)について大切な事を教えてみえる。礼拝は敬いのこころから表される行為であるが、礼拝しているからと言って本当に頭が下がっている(帰命)訳ではない。しかし、本当に頭の下がる(帰命)ことに出遇えば、それは必ず礼拝となって表現されると教示される。

老女がひとかけらのバナナに、いちいち合掌し頭を下げてみえたのは、生涯かけて食事にいのちの尊さを感じてみえたからこそ、礼拝せずにおれなかったのではないだろうか。

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