飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2024年1月15日

渡邊 侑希 (了因寺住職)

第138話 法事をつとめる

 春に青々しく茂り、秋に美しく紅葉して私たちの目を楽しませてくれていた木々の葉も、冬になると冷たい風に吹かれて落葉し、地面に散乱します。私は、特に秋から冬にかけての相(すがた)を見ると心にざわめきを感じます。『白骨の御文』に「無常の風来たりぬれば、(中略)紅顔むなしく変じて桃李の装を失」うと描写されるような、私たち人間の一生の儚い相を見ているようで、感慨深くなるのです。

 さて、昨年の一年間、自坊においても何名かの御同行が亡くなられ、通夜葬儀のご法事に出あわせていただきました。その中には、所謂「大往生」といわれるようなご長寿の方もあれば、人生まだまだこれからと思われるような年齢で夭折された方もあります。一緒にお見送りをする親族・有縁の方々の様子も、十人十色、様々です。通夜葬儀の後は、三十五日(満中陰)、一周忌、三回忌、七回忌と、事あるごとにご法事がつとめられ、故人を偲び、弔います。これにはどのような意義があるのでしょうか。

 落ち葉はホウキで掃いてしまえば綺麗さっぱり、やがて土に還ります。必要であれば、焼却処分すれば片が付きます。しかし、人間は、同じようにはいきません。焼却処分(火葬)では済まされない複雑な「情」を持っていて、行き場を失い、迷います。骨は土に還りますが、情は土に還ることがありません。なかなか片が付かない存在です。しかも、その情はどこにあるかというと、故人ではなく、残された私たちの方にあるのです。何世代にも渡って迷いに迷いを重ね複雑化した情を腹の底にため込み、縁次第で喜怒哀楽を繰り返しては、地獄・餓鬼・畜生といわれるような生き方に没して、また迷うのです。このような人間を、仏教では「有情(うじょう)」といいます。

 阿弥陀仏は、救いようのない有情なる私たちを見そなわして、南無阿弥陀仏という名号になって、必ず救うと誓われました。そして、私たちは、その名号をご法事の度に口に称えます。阿弥陀仏の誓いが私たちに至り届けられた、お念仏です。しかし、阿弥陀仏から私たちに直接届けられたわけではありません。故人が、迷いの只中にある私たちに、ご法事の場を整え、届けてくださっているのです。ご法事をつとめるということは、故人から私たちへの念仏相続の場であり、それは、人間が生活の中で、欠かしてはいけない、営みではないかと思います。

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