飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2020年10月16日

江馬雅臣 (益田組賢誓寺)

第5話 南無阿弥陀仏の生活

◆ひとりと出会う

先日、ひとり暮らしの88歳のお婆さんと、旦那さんの祥月命日をお勤めしました。

お婆さんがお内仏(ないぶつ)の荘厳(しょうごん)の準備をしながら、

「最近は物忘れも多い、耳も遠くなった、目も暗ろうなってしまった」

とつぶやかれました。

準備が整い、お内仏の前に身を置くと、

「すまんが足が曲がらんもんで、伸ばしたままお参りさせてもらうで堪忍してくれよ。ナ ンマンダブツ」 と、

もう一枚の座布団を伸ばし足の上に置かれたのです。

御本尊(ごほんぞん)に向かって共に合掌し、お勤めを終えて振り返ると、

「おかげさまで(仏事に)会わせてもらいました。私もいずれ浄土にまいらせてもらう時が来ますわい」

と微笑(ほほえ)まれました。

そのお婆さんの微笑みの奥に、わが身の事実としての「老い」を引き受けながら、

南無阿弥陀仏の生活をしておられることを感じました。

しかし、一方では、「若いうちはいいけど年を取ったらもうダメだ」と、

年を重ねることが非常に哀れで悲しいことだという声を聞くことがあります。

また、「元気な時はお陰さまと喜び、間に合わなくなったら神や仏もあるものか」という言葉も耳にします。

日頃の私たちの心は、すべて自分の都合の物差(ものさ)しで考え、受け止めてしまいます。

あらためて、南無阿弥陀仏の教えを中心に生活する大切さを感じます。

 

◆親鸞聖人のお手紙

親鸞聖人が85才のとき書かれたお手紙の中に次の言葉があります。

  目もみえず候(そうろ)う。なにごともみなわすれて候ううえに、

  ひとなどにあきらか にもうすべき身にもあらず候う。

       (『末燈鈔(まっとうしょう)』/『真宗聖典』(東本願寺出版)605頁)

 

親鸞聖人は晩年、老いていくわが身の事実を見ていかれます。

「目もみえず候う」と次第に視力が衰えていくことや、

また、「なにごともみなわすれて候う」と書いてあるように、

私たちも年齢を重ねるごとに「物忘れ」がひどくなってきます。

しかし、ここでおっしゃっている親鸞聖人の場合は、

ただの物忘れを語っているのではなく、

諸師や先達の教えの言葉を大切にしながら生きてきたけれども、

その言葉を門弟に伝えることが出来なくなってきたと

おっしゃっているのだと私は思います。

 

◆「老い」て生きる

親鸞聖人は、「ひとなどにあきらかにもうすべき身にもあらず候う(人さまに明瞭に申し上げることのできる身ではありません)」と語られ、

人にも教えの言葉をお伝えすることが困難になってきたと言われていますが、これは、ただの愚痴(ぐち)ではなく、

自身の衰えの事実を引き受け、述べられています。

親鸞聖人の生活は教えが中心であり、「老い」という事実も教えに出遇う機縁として大切にされたのだと感じます。

あらためて、ご門徒のお婆さんの言葉や、親鸞聖人の残されたお手紙をとおして、南無阿弥陀仏と念仏申しながら「老い」を味わう日暮しを過ごしたいと思います。

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