飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2023年6月15日

宮本 美和子 (長圓寺門徒)

第124話 みんな願われて、ここにいる

「母も見送ったことだし、これからは自分の時間を」と思っていましたが、なかなかそうもいきません。お嫁に出したはずの娘から「お母さん、少し時間つくれる?」とのSOS。どうやら、おばあちゃんの出番のようです。くつろいでいるヒマはなさそう。週の半分は、仕事が忙しい娘に代わって3人の子育て、いや孫育て。車を走らせて保育園へ迎えに行き、一息つく間もなく嫁ぎ先で夕食の準備、その流れで食卓も共にいたします。

 夕食は義理の祖母も加わり、会話がはずみます。孫の何気ない一言に成長を感じながらも、時に世代間のギャップに驚かされます。当然ながら、私や祖母の考え方と、孫のそれとは明らかに違うよう。「えっ、どうして」の連続です。「○○くん ○○ちゃん」という呼び方は、今はよろしくないのだとか。「○○さんと、名前はさん付けをしないとダメ」と注意されてしまいました。「男の子なのだから」と、つい口にしようものなら……。私のような世代の感覚は、もう時代おくれなのでしょうか。孫をセンセイに、私もいろいろと勉強中。

 

 この冬のことです。孫との忙しい、刺激のある毎日を送ってはいましたが、それでも独り仏間に身を据えた時などに、よく次のように思うことがありました。「私はなぜ、ここに居るのだろう」「それも何のために」。いつも大勢の家族・親族に囲まれているのに、です。

私に先立って淨土へ帰った主人や父母、そして法名軸に名を連ねる先人たちも、日々の営みのなか、生きる意味を問うたのでしょうか。この阿弥陀さまの前で、今の私と同じように。答えらしきものは見つからず、私はただ手を合わせることしかできませんでした。窓の外と同じように、私の心もまた冷え込んでいたのでした。

 

 そんななか縁あって、この春に2度、東本願寺へ足を運ぶ機会がありました。慶讃法要。久しぶりの御影堂です。親鸞聖人は私を待っていて下さいました。ご真影の前に座ります。「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と念仏が出たとき、深い感動に包まれました。「どこに居ようと、私は私でいいのだ。みんな願われてここにいるのだから」。

 境内ではさまざまな展示・催しもありましたが、やはり心に残ったのは法話です。今ではその内容もうろ覚えですが、講師の話に引き込まれました。ここに来ることができて良かったと素直に喜べました。迷い深き私の背中を、亡き方々が聞法の場へ押し出してくれた気がしました。

 孫とのバトル?は今も続いています。ホウレンソウを束ねるパートも始まりました。体はクタクタですが、お内仏の前では意識せずとも自然に背筋が伸びている気がします。「お育ていただき、ありがとうございます」。あたたかい気持ちになれる自分がいます。

 

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