飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年11月30日

伊達晴香 (稱讃寺)

第98話 鬼

 幼い頃から、ずっと気になっていたものがある。自坊のお座敷にお坊さんが着る衣、つまり法衣を着た古い鬼の土像がある。それが何なのか生前の祖父や父に聞いても、誰も知らなかった。

 何年か前に滋賀県の大津へ行った時のことである。お土産屋さんに古い風刺画が描かれている「大津絵」というものがあった。その中に「鬼の念仏」という絵があった。法衣に身を包んだ鬼がそこには描かれていた。

 気になって、高山へ戻ってから「鬼の念仏」について少し調べてみたところ、大津絵の代表的な題材だそうで、「無慈悲で残酷な心を持った者が、うわべだけ慈悲深そうに振舞う」ということを意味しているそうだ。

 この大津絵に登場する鬼は、「風刺画」とよばれることからも分かるように、他人の愚かさや邪悪さを象徴した存在である。

 親鸞聖人は次のような和讃を残されている。

   悪性さらにやめがたし 心は蛇蝎のごとくなり
     修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる 

 悪性はなかなかやめられない。私の心は蛇やサソリのように恐ろしいものだ、善行も嘘っぱちになってしまう。そんな自分を省みて、嘆いている和讃である。

 親鸞聖人は、そのような自分だからこそ、阿弥陀さまにおまかせして念仏申しあげるより他ないのだとおっしゃった。

 私の心にも「鬼」が潜んでいる。鬼である自分を反省してみても、同じことを繰り返してしまう。

 風刺画として描かれた「鬼の念仏」だが、本来風刺したかったであろう意図とは別に、鬼のような私であるからこそ、念仏しかないということを教えられたような気がした。

 さて、自坊の鬼の土像であるが、それが大津絵の「鬼の念仏」と同じものを表しているのかどうかは今のところ分からずじまいである。大津絵の鬼がやや恐ろしい形相であるのに対して、自坊の鬼は少し申し訳なさそうに頭を押さえているユーモラスな姿をしているのだ。頭を触って角があり、自らが鬼であることを自覚したからなのだろうか。それとも、単なる照れ隠しなのであろうか。

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