飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年11月25日

窪田 純 (圓德寺)

第97話 リリース&キャッチ

 昨年の三月、あるお宅で一周忌のご法事を勤めさせてもらった。最近では、コロナ禍にあって、大勢が集まる機会も少なくなったが、亡くなられたおばあちゃんのきょうだい、子、孫、ひ孫たちで広いお仏間がいっぱいになり、久々ににぎやかなご法事のご縁をいただいた。

 もし、今日がおばあちゃんのお誕生日だったら、これほどの人が集まるのだろうか、と考える。メールやリモートなど、通信手段の進歩により済ませられる用事が増えている中で、年長者も子どもも、たくさんの方が都合をつけ、身を運んで同じ場所に集わせてくれるご法事の不思議さを改めて感じた。

 お勤めを終えてのち、お骨を納めるためにお墓に向かった。私は、若夫婦の車にご案内いただき、お宅の裏手の坂をのぼったお墓で、みんなの到着を待った。お花やお水を持ち、歩いて坂をのぼってくる人たちの中に、大事そうにお骨を抱えてお墓に向かってくる人物が目に映る。当時、小学一年生だった、ひ孫のゲンタくんだ。

 愛情たっぷりの両腕に、ひ孫を抱いてきたひいおばあちゃんが、今はお骨となって、ひ孫の小さな両腕に大切に抱かれている。腕に抱えられるぐらいのお姿になられたという寂しさ以上に、私は暖かさ、尊さ、厳かさを感じていた。ゲンタくんは、お骨をあずかるという大切な役目を担っていることを自覚していたのだろう。妹のスズちゃん、同じ年頃のいとこを先導し、凛々しく、立派な姿で歩いてきた。

 お墓に到着した後、私は「お勤めのお手伝いもしてくれるか?」と聞いた。彼は「うん」と返事をし、私と一緒にお鈴(りん)を鳴らしてくれた。田畑をかけ回るわんぱく盛りの彼は、お勤めの間中、まっすぐに前を見据え、背筋を伸ばして立っていた。

 彼は、大切な人のお骨を手放さなければならなかった。しかし、手放すことを通じて、「大切な人が、お骨になってまで伝えなければならなかったこと」を、きちんと受け取った。そう感じた。別れを通じて、私たちは大切なことをいただいている。子どもの姿に教わることは多い。

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