飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年12月23日

小原 正寛 (專念寺)

第102話 数え年

 仏教では年齢を数え年で計算します。

 数え年とは生まれた時に年齢を1歳と数え、年が明けて一月になると歳を重ねます。

 つまり12月生まれたこどもは生まれて時が1歳になり、年が明けた次の1月には数え年で数えると2歳になってしまうわけです。ややこしい数え方だなと思っていましたが、実はこの数え方には大事な意味があります。私たちは「おぎゃあ」と生まれてから命が始まったと考えます。しかし、この数え年は生まれる時に1歳ですから0から1になるまでがあるわけです。私たちの命はお母さんのお腹に命が授かって生まれます。しかし、そのお母さんに命が授かるためにはお父さんと縁があり授かるわけです。また、そのお母さんがいるためにはおじいちゃん、おばあちゃんがいないと生まれくることができません。その上にもっと色んな人がいて、お母さんがいるわけです。そして、お母さんが生きるためには色んな命を食して、その命は授かって生まれてくるわけです。ただ数字の1ではなく、この1までに数え切れない命があるわけです。

 話は変わりますが、つい先日、友人とガイドの案内で五色ヶ原を散策してまいりました。ブナ・ミズナラ・サワグルミ・オオシラビソなどの広葉樹林やシラビソ・コメツガなどの針葉樹林、可憐な花を咲かせる希少な山野草、またおおく渓流と滝、池、湿原などを見てまいりました。ガイドの案内の中でこのシラビソが大きくなるためには前の朽ちて倒れた木を苗床としないと大きくそだつことは難しく、倒木を栄養として次の命が育つことができることを「倒木更新」と言うのだと教えてくれました。

 私たちが生まれるためには様々な命を苗床しなければなりません。そして、私たちの命が終わっても、私の命を苗床として次の命が育つことができるわけです。

 数え切れない命があって命があることを仏教では「無量寿」と言います。そして、南無阿弥陀仏と称える念仏を「帰命無量寿如来」と親鸞聖人は言われます。南無阿弥陀仏の念仏を称えることは私まで届けられた数え切れない命があったのだと証明の言葉でもあるわけです。

 

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