細川宗徳 (高山1組蓮乗寺住職)

「わたし、きれい?」。振り向くとマスク姿の女が立っていた。

長い黒髪。薄手のコート。ナイフを握っている。NOという選択肢はなさそうだ。

何しろ顔の半分はマスクだ。目もとから美醜を想像するしか、すべはない。

私はこれまで出会った女性に、その手がかりを得ようと試みた。

涙さえ拒む、切れ長の瞳にたどり着いた。

あの夏から、もう10余年。思い出の瞳に小じわを加えてみた。

元気だろうか、彼女は今も紅茶はミルクだろうか?

 

ナイフが乱反射した。リミットなのだろう。いつの時代も女性を待たせるのはよくない。

「きれいになるだろう。でも君は若すぎる、私には」。

このセリフを口にするのは二度目だ。

女は身勝手だ。他人に見せられない自分をも愛してほしい、と願う。

「今、きれいと言って。こんな女だけど…」。

彼女はマスクを外した。口が裂けている、それも耳元まで。

「君は欲張りだ。その唇で同時に二人の男を受け止めようというのだから……」

 

あの伝説の「口裂け女」が、秋の郡上に出没してから40年あまり。

かくして2020年、新型コロナウイルスの感染予防で、誰もがマスクをするようになり

ました。それも、口裂け女が愛用した大きなサイズを。「新しい日常」。その提唱者の一人、

小池都知事はスーツにあわせて毎日それを選んでいました。「わたし、きれい?」。

 

マスクがファッションにもなった「新しい日常」。その前に流行ったフレーズといえば、

今となっては懐かしい、この春の「ステイ・ホーム」。発信元はこれも小池都知事? いい

え違います。「ステイ・ホーム」の出どころは真宗です。

 

当流、親鸞聖人の一義は、あながちに出家(しゅっけ)発心(ほっしん)のかたちを本とせず、

捨家棄(しゃけき)欲(よく)のすがたを標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定(けつじょう)

せしむるときは、さらに男女(なんにょ)老少をえらばざるものなり(後略)。 蓮如上人「御文」1帖目2通

 

親鸞聖人があきらかにされた真宗は「出家発心のかたち」「捨家棄欲のすがた」をとらな

くても良いのだと。出家してお坊さんにならなくても、愛しい人と別れなくてもいいです

よ…。家庭にいながら南無阿弥陀仏をいただきましょう。これぞ元祖「ステイ・ホーム」。真

宗が在家仏教ともいわれる由縁です。

 煩悩を断ってお釈迦さまのようになりたい…。こんな決意をもって家を捨てても、男女が

また一つ屋根で時を過ごせば人間の業には勝てません。

「昔を思い出して、しようか」「えっ何を。あやとり、トランプ?」

「男と女がするといったら、あれだよ。観音さまのお参り」

   「あなた、阿弥陀さまでなくていいの?」  

「菩薩をかろしむべからず、と御文にあるから、かまいやしねえ」

   「ダメ、腰巻をのぞいちゃ…。こんな昼間っからイヤ」  

「秋の日はつるべ落とし。もたもたすると日が暮れて、祠の茂みで迷子になっちまう」

 

 除夜の鐘でも、アルコール消毒でも煩悩は消えません。「愛欲を離れなさい」と釈尊が説

かれたのは、出家ぐらいでは断てない人間の業の深さを知らせるためにです。末法、五濁の

世にあって「罪悪生死の凡夫・出離の縁なき身」を深く信ぜよ。それが南無阿弥陀仏に帰す

る転機になるのだと。

 凡夫を生きる。時には「悪を廃し、心を浄めるのが仏教では」と後ろ指をさされても、そ

れをも縁に凡夫へ帰り続ける。これこそが今も昔も変わらない、出家すら必要としない「ス

テイ・ホーム&新しい日常」。真宗でいう往生浄土の姿です。