森 香里 (高山2組秋聲寺坊守)

以下2つの設定はどちらも、ご家庭での出来事とお考え下さい。

①お手洗いを使用後、トイレットペーパーが芯だけになりました。あなたはいつもどうしていますか。
②箱ティッシュの最後の1枚を使った時、あなたはいつもどうしていますか

「そんなこと気にしたこともない」「そのままにしておく」「(家族の誰かに)無くなったことを伝える」「(次に使う人が)新しいものを出す」「補充係がいるから自分はしない」「(使い切った人が)新しいものをセットしておく」「私が補充係なので常に気を付けている」等々、他の型をお持ちのご家庭もあるかもしれませんが、〈自分では補充しない(補充したことがない)〉か〈自分で補充する〉に分かれるのではないでしょうか。

私の場合、結婚後二世帯同居生活をする中で感じた引っかかりに上記の二つがありました。結婚当初、ペーパーホルダーに紙芯だけ残っていたり、「ティッシュが無いぞ」と催促された人が新しい物を出すといった場面に出くわし、モヤモヤした気持ちになることがしばしばありました。というのも、実家では、使い切った人がその時に補充していたので、皆が〈自分で補充する〉という型の生活でしたが、婚家では、催促された人が補充するという〈自分では補充しない(補充したことがない)〉人と〈自分で補充する〉人が混在する型の生活に変わったからです。〈自分では補充しない(補充したことがない)〉人へのモヤモヤした気持ちは時が経つにつれ「使い切った人が補充しておくのが普通だ」との思いに変わっていきました。

「○○するのが普通」「普通なら○○する」の奥には「○○しないのは変」「○○しないのは異常」の心情が隠れています。私の場合、「使い切った人が補充しておくのが普通」という基準で「使い切った人が補充しておかないのは変」と自分と他者を切り離していたのです。

私たちにとって、自分の経験や体験を通して慣れ親しんだ行為や習慣が「普通」であり、その「普通」を基準に自らが縛られ他者を選別しているのではないでしょうか。コロナ禍の今、スーパーなどの店内でマスクを着けていない人を見掛けると、マスクを着けている私に「なんでマスク着けとらんのやろう(着けるのが普通やのに)」という気持ちが湧いてくるのは、「マスク着用が普通」ということを基準にして、マスクを着けていない人は普通から外れているのだと見ているからでしょう。「自粛するのが普通」が緊急事態宣言時の自粛警察を、「越境移動しないのが普通」が他県ナンバーの車への嫌がらせを生み出しました。私たちが使う「普通」には分断させる作用があるようです。

親鸞聖人が記された「邪見憍慢悪衆生」とは、慣れ親しんだ行動や習慣という「普通」を基準に自他を切り分けて生きている私たちの姿であり、偏ったものの見方と自分が不利にならないように立ち回ることから抜けられない身をあなたも私も生きていると教えているのかもしれません。