白川明子 (高山2組 願生寺)

ある日の家の中、一人で考えごとをしたかった私は、

居間から離れた廊下でぼーっと膝を抱えて座っておりました。

しばらくすると、私を探していた4歳の娘がやって来て「おかあさん、ここにおったのかぁ!」と嬉しそうに言います。

娘には申し訳なかったのですが、気持ちを切り替えて一緒に遊ぶ気分にもなれず、

「なんでもないよ。大丈夫やで、向こうのお部屋で待っとってくれる?」と答えました。

「今はそばに来ないで、放っておいてくれ」という遠回しな拒絶です(ひどい)。

ところが娘は特に気にする様子もなく、「じゃあ、ここにおるさ」と私の隣にちょこんと腰を下ろしました。

私が発する嫌な空気に押されてその場を去ってしまうかと思っていたので

少々驚きました。私にくっついて座り、ご機嫌で鼻歌を歌ったり、

保育園のことなどを話してくれます。

なぜここにいてくれるのかと尋ねると、「おかあさん、一人でおるとかわいそうやもんな」と。

もはや「どちらが大人なのか分からん」状態です。

彼女に、励まそうという思いがあったかどうかは分かりませんし、

それはどちらでもいいことです。「私がここにいたいから隣に座っているんだ」ということが、

ただただ嬉しく、その体のぬくもりや幼い声が、冷たく硬くなっていた私の心身にじんわりと温度を与えてくれたように感じました。

娘のことを大切に思う気持ちも、気づかぬうちに

「大切にしてあげている」という傲慢な思いになっていたのかもしれません。

しかし、実は我が子に「大切にしてもらっていた」のです。

そして、子どもは親や家族だけでなく、たくさんの方々とのご縁から、

いろいろなことを素直に受け取って育っている。

そういう大事なものを一緒に感じさせていただくことも、子どもが与えてくれる贈り物なのでしょう。

仏さまの教えの中に「三悪道(さんまくどう)」、

すなわち「地獄・餓鬼・畜生」という言葉があります。

死後の世界のことではなく、私たちの生活の中のすがたを指しています。

宮城顗先生は、「三悪道とは、『ありがとう』『ごめんなさい』『プリーズ』を失っている世界」だと伝えてくださっています。

「プリーズ」とは、「もしあなたがそれをお望みなら」という意味で、「まわりの人のことを思いやり、

自分にできるかぎりのことをしてあげたいと願う心です」とおさえられています(『和讃に学ぶ 浄土和讃』より)。

「プリーズ」がない世界は、結局は自己中心の世界です。

「してあげている」ということばかり主張し、自分も「(して)いただいている」ことにはなかなか気づきません。

「私がこれだけしてあげているのに」と語尾に「のに」が付きがちなのは、

自分が正しいことを前提とし、どこか見返りをも求めているのでしょう。

「してあげる世界から、させていただく世界へ」と、市内のお寺さんの掲示板で拝見しました。

決してきれいごとではなく、そちらが「ほんとうの」世界なのです。

一方ではそこに素直にうなずけない自分、それも一緒に抱えたまま生きていていいのだと思います。