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- 高山別院の歴史について
当寺光曜山照蓮寺(こうようざんしょうれんじ)は、京都の東本願寺を本山と仰ぐ真宗大谷派の高山別院である。その起源は遠く鎌倉時代に遡り、開基は親鸞聖人(しんらんしょうにん)の弟子嘉念坊善俊(かねんぼうぜんしゅん)である。善俊は、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の孫とも皇子ともいい、伊豆の三島で関東より上洛(じょうらく)途中の親鸞聖人の門弟となったと伝えられる。当初、善俊は白川郷鳩ヶ谷(はとがや)(大野郡白川村)に、その後、同郷飯島(いいじま)に専修念仏(せんじゅねんぶつ)の道場を構え、正蓮寺と称した。
次第相承して室町時代、第9世明教(みょうきょう)の代になり白川郷に真宗門徒が増えると、脅威(きょうい)を抱いた在地の土豪内ヶ島(うちがしま)氏の焼き討ちに堂は焼失し一時断絶した。その遺子10世明心(みょうしん)は本願寺8世蓮如上人(れんにょしょうにん)・9世実如上人(じつにょしょうにん)に帰依し、永正1年(1504)白川郷中野(高山市荘川町)に九間四面の本堂を再建し、光曜山照蓮寺と改称した。
天正13年(1585)、金森長近(かなもりながちか)は豊臣秀吉の命を受けて飛騨に侵攻した。長近は照蓮寺との協調政策をとり、同16年(1588)、13世明了(みょうりょう)(等安)を請じて高山の現在地に寺地を与え、堂宇を建立した。以後、照蓮寺は藩主金森家から養子を迎えたり、東本願寺13世宣如上人(せんにょしょうにん)の六女佐奈姫(さなひめ)の入輿(にゅうよ)もあるなど、触頭(ふれがしら)寺院として末寺70ヶ寺余を擁する大寺であった。
17世紀末、金森氏が出羽へ移封され飛騨は天領となったが、寺領は従前のとおり安堵(あんど)された。しかし、まもなく照蓮寺と末寺に軋轢(あつれき)が生じ、元禄16年(1703)、17世一乗(いちじょう)は東本願寺に献上し、以来本山の掛所(かけしょ)「高山御坊」となった。また飛騨人からは「仲間の御坊」と親しまれ崇敬(そうきょう)されてきた。明治以降は真宗大谷派高山別院光曜山照蓮寺と公称している。
照蓮寺は8回に及ぶ火災と再建の歴史をもつ。近年も明治8年(類焼)、昭和22年(類焼)、昭和30年(放火)と3度焼失している。焼失の度に飛騨門徒の浄財と労力を結集して木造檜皮葺(ひわだぶき)、20間(36メートル)四面の本堂と、壮麗な彫刻を施した山門等を再建した。しかし放火で本堂を焼失したのちは、昭和39年、規模を縮小して耐火建築で建立された。
そして令和元年(2019年)、高山教区・高山別院宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要が厳修されるにあたり、約50年の風雨・積雪に耐えてきた高山別院に相当な補強工事が必要であることも判明した。地域に親しまれてきた高山別院が、今後も飛騨の中心道場として後世にわたっても相続され、ご門徒をはじめ地域の人々やすべての人たちにも開かれた別院としていくための事業として、本堂屋根改修工事及び耐震補強工事が行われ、現在に至っている。
飛騨御坊と高山別院
高山別院は飛騨の地域の人々に、「ごぼうさま」と呼び親しまれてきた。なぜ親しまれてきたのか。それは、飛騨御坊(親鸞聖人の正面向きの「真向きの御影」)が地域の人々にとっての信仰の中心となっていたからである。
明治9年、「飛騨御坊」は「高山別院」という名称に変更された。変更された理由は諸説あるが、一説には明治時代に入り、「御坊」という地方の有力寺院の扱いを新たに定める必要性があったからだと言われている。つまり、高山別院と言う名前は法規(真宗大谷派の規定)によって、変更された名前である。
しかし、名前が変わったからと言って飛騨の人々の信仰に変化はなかった。それを象徴するものとして、創建以来、実に8回に及ぶ焼失に見舞われながらも、そのたびに「おらが御坊さまのため」と、真宗門徒の再建にかける熱意によって復興されてきたからである。この脈々と受け継がれてきた信仰は今もなお、飛騨御坊の前で手を合わす人々の姿が現している。高山別院にお越しの際は、真向きの御影(飛騨御坊)にお参りください。