飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年5月13日

三島 多聞 (高山別院輪番)

第70話 聞光力

眼も見えず、口も聞けず、耳も聞くことのなかったヘレンケラーさん。ある時「もし神様が目と口と耳のいずれかを正常にしてあげる、と言われたら、どれが欲しいか?」とインタビューを受けました。すると言下に「耳がほしい」とケラーさんは答えました。きっと「眼が欲しい」と予想していたので、驚いてそのわけを尋ねると、答えは「心に光が入るのは耳からだからです」と言った。

80年間、闇の中にあって求め続けていたのは「光」であったはず。また、百聞は一見に如かずということがありますから、きっと眼が欲しいというと思っていたのです。しかし、予想だにしなかった返答だった。聞き手が驚いたのは「光」は目から入るものという予定観念が破られたからです。ここで気づいたのは、本当の「光」は当方の予定観念を破る働きを「光」ということだった。

障害があるのは不便で気の毒な事だという予定観念は、一度「光」によって破られる必要がある。

多くの人が手がないのはご不便でしょうと言われるが、私は両手がないことで救(たす)かっていますと、中村久子さんは答えている。これらの気づきの世界は眼から気づくのではなく、「耳」から‘光’が入ってくるからだ。

『歎異抄』の最初に「全く自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。よって故親鸞聖人御物語の趣、耳の底に留まるところ、いささかこれをしるす」とあります。耳の底に残っている教えを述べるのですが、記憶力が良いという話ではない。自分の予定観念が念仏の教えに破られたことを述べるというわけです。親鸞聖人の和讃に「聞光力のゆえなれば、心不断にて往生す」とあります。ひとたび‘光’を聞いたので、忘れようにも忘れられないことを言っています。

「『光』は見るものでなく、聞くものだ」

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