飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年4月29日

春國 文春 (玄興寺住職)

第68話 苦を生きる

30年程前、別院の呼びかけた子ども会中に、皆で「いのち」について考える班座談をした。「なぁーみんな。「人間は長生きをしたがるが年はとりたくない」っていうけど、これってどういうことやと思う?まずみんな長生きしたいと思うやろ?」ときくと、グループの中の一人の男の子が真顔で「長生きはしたくない。苦しみが長くなるだけ。いいことないで…。」とつぶやくように言った。ご家族に苦しんでいるご老人がみえて、「年はとりたくない」と思わせる老苦の内容を、家庭生活から小学生にして既に感じとっているのかとショックを感じた。

 また、同じ頃に聞いた話に、ある小学生が親孝行ということで書いた作文があり、その内容は『一生懸命働いてお金を貯めて、親を立派な老人ホームに入所させてあげたい』というものがある。

今でこそ介護福祉の考え方や内容が充実し、「共生」「互助」の社会の在り方が模索され、社会的弱者や苦しんでいる方を「親孝行」という大義をもって家族だけで面倒見きるという世の中ではなくなってきている。だから、それほど違和感なく受け入れられる話かもしれないが、その当時は道徳的に親孝行ってそういうもんでないやろという感覚が強くおかしさを感じた。

この2つの話の共通する課題は、老後の不安なのだろう。それを一方は悲観的にとらえ生きる力が萎えてしまい、もう一方は生活の環境を整えれば不安は解消されると思っている。

お釈迦さまは、人生は「一切皆苦」と教えられる。生きることはすべて苦しみであって四苦八苦を逃れることは出来ない。この世に生まれ、どのようなご縁に遇って生きようとも、死ぬことの畏れからくる不安や苦から完全に開放されることはない。

だからこそ、我々に願われていることは、自らの不安や苦しみを誤魔化さず、その原因を見極め、教え導いてくれる仏法に出遇い、その不安・苦しみを引き受けて生きることなのだろう。

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