飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年2月25日

白尾 公信 (了心寺住職)

第59話 共に生きる

「すいません、すいません」。母の部屋から大きな声が聞こえる。時計を見ると夜中の2時半。「出た、またいつもの時間や」と憂鬱な気持ちで部屋を覗くと、電気ストーブに向かって母が語りかけている。かつては、ここまででは無かったが、2月で97、要介護5なので、一晩中ストーブと話しをしていても不思議ではない。

月参りに行き、母の認知のことを話すと「御院さん、あたしゃ、姑様を8年自宅で診たよ」。今のような介護サービスの少ない時代、頭の下がる思いである。と共に、今の私の苦労が、私一人だけでなかったと救われる気持ちにもなる(共有)。

経典に、我が子を失った母親が、釈尊に救いを求め、死人の出たことの無い家から「けしの実」をもらうことで我が子を生き返らせようとする話しがある。全ての家を回った母親は、

死の悲しみが私一人ではなかった、そして私もいずれ死ぬことを悟る。

釈尊は四苦(生老病死)を説いた。人間は生まれれば、老いて病んで必ず死んでいく。しかし私たちは、自分に都合の良くない四苦に目をつむり、少しでも遠ざけようとする。まださほど老病死の実感の無い私に、母が老いたとは?病とは?を自分の身を呈して必死に教えようとしているのである。老病死が他人事でないことを、母が自分の姿で「気づけよ!」と示している。仏の教えがここに生きているのである。そこから限りある若さ、健康、いのちをどう生きるかが問われてくる。母の老病の姿を無駄にしてはいけないと思うのだが、「事務次官の葬式は明日か?私も参るで」と聞かれると「事務次官って一体誰いな?」と聞きたくなるのである。

「不断煩悩得涅槃」(正信偈)。親鸞は生涯煩悩と共に有り、私もまた母の姿から、生涯ウィズ四苦ウィズ煩悩の我が身と教えられる。その煩悩具足の凡夫を救うのが阿弥陀様。母も私も、阿弥陀様と二人連れの人生。

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