飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年2月4日

白尾 匡 (長圓寺住職)

第56話 命の紡ぎとお念仏

「カムカムエブリバディ」をご覧になった事はありますか?現在、放送中のNHKの連続テレビ小説です。これはラジオ英語講座を傍らに、三世代の女性たちが紡いでいく、百年のファミリーストーリーが十一月から始まりました。毎朝、楽しみに見ている私ですが、何が私の興味を擽っているのでしょうか。

先日、あるご門徒の五十回忌を厳修致しました。そこで、法要後、お伝えさせて頂いた事は、今、この時に存在出来ているのは亡くなられた方がその時代を生きてくれたからこそ、命を紡いでくれたからこその今の私たちの生活があるのだと。だから、私たちはその命に感謝しなければなりませんと。   

私たちはどうしても傲りの身でありますから、今の自分があるのは自分の力であると錯覚しています。しかし、今、この世にいられるのは、父母・祖父母・曾祖父母。おかげさまで今この時間を生きていられるのです。

【いのちのまつり】という絵本の一節に、「ぼうやにいのちをくれたの人は誰ね~」(中略)「だけどさぁ~お父さんとお母さんにいのちをくれた人がいなければ、ぼうやは生まれてないさぁ~ね」(中略)「そうだねぇ。だけど、おじいちゃん、おばあちゃんに、いのちをくれた人もいるさぁ~ね」とあります。命を「やった」とか「もらった」と物のやりとりでは決してありませんが、しかし、わたし達の命は「くれた人」がいて「もらった私」が確実に今いるのです。そして「くれた人」は合掌して、お念仏を申していました。その事を私は「いのち」と同様にもらっています。親鸞聖人から頂いたお念仏が八百年経っても私にまで紡がれているのは命をくれた人が居てくれたからだと。

「カムカムエブリィバディ」の百年の命の紡ぎと親鸞聖人のお念仏の紡ぎがシンクロし、生活の中で当り前となってつながってきた事に改めて思いを馳せることのできるドラマである事で私の興味を揺さぶる中毒性のあるドラマになってしまっているようです。

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