飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2021年12月10日

小原 正憲 (專念寺住職)

第49話 それでいいのか

ある学校で高校生の担任をしている先生の話です。

クラスの生徒たちとなかなか思いが通じ合わなくて、しんどいなぁという思いをしていた頃のことです。と言っても、思いが通じない原因は、自分の思いにあったやり方を単に押し付けようとしていたことにあったというのは、後になって分かってくるのですが、一生懸命に仕事をしているのに通じない、報われない、またやるせないという、そういった思いのもと仕事が面白くないなと、そんなことを感じながら愚痴をこぼしていた日々の事です。

ある日、幼稚園に通っていた息子と一緒に風呂に入った時に「ボク歌、歌うよ」と言って歌い始めました。「なんのために生まれて、なにをして生きるのか、こたえられないなんて、そんなのはいやだ」。ご存じの「アンパンマンのマーチ」です。また、息子が2番を得意そうに「なにが君のしあわせ、なにをしてよろこぶ、わからないままおわる、そんなのはいやだ」と見事に歌いきりました。今までも聞いていたのですが、それほど響いていなかった。ところがこの時は、自分の中にある、思い通りにいかないということでグジグジと言っていることが、ズバリと言い当てられた気がしたそうです。その歌の内容には、私が私として生まれたことの意味を知り、私であることを喜んで生きているのかという問いに対して、そんなこともわからずに一生を終えていく「そんなのはいやだ」「それでいいのか」と深く問いかけられたそうです。

ところで「啐啄同時」(そったくどうじ)という言葉がありますが、卵から出ようとする雛の声と、母鳥が外から殻をつつく、そのタイミングがぴたっと合うことで「いのち」が生まれるということです。お互いの機が熟す、通じ合えるという意味です。そう思う時に「オレが」「私が」と、相手かまわず自分の事を通す世界に対し、お互いの願いが通じ合える、そんな心を持ち続けたいものです。

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