飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2021年11月12日

四衢 亮 (不遠寺住職)

第45話 人生の省略・簡略はできません。

秋は運動会の季節です。新型コロナウイルス感染の中、運動会の様子も様変わりしています。例年9月になると隣の小学校では毎日運動会の練習が行われ、応援合戦も日ごとに熱を帯びて、元気な声が聞こえてきました。今年は一向にその様子がなく静かです。聞けば、平日に家の方々などの観客を入れずに行い、家庭にはオンラインで配信するとのこと。種目も減らし、道理で静かなわけです。

運動会でいつも思い出すのは、お寺の子ども会に来てくれていたT君のこと。通っていた保育園の運動会の次の日が、子ども会でした。T君に「運動会終わった?」と声をかけると、「うん、昨日で終わった!」と元気に応えてくれました。その応えの言葉に、思わず笑ってしまいました。「昨日で」という「で」のところにT君の心が込められています。

「昨日終わった」と言わず、「昨日で」と言ったのは、T君にとって、夏前から毎日のように、体操や踊りを覚え、繰り返し練習し準備をしてきた、長い長い運動会が、昨日でようやく終わったということなのです。毎日が運動会、真剣で精いっぱいの運動会だったのです。今日は練習だから、これは稽古だから、まだまだ準備段階と、手を抜いたり、気を抜いたり、ずるをしたり真剣さを欠くのは、おとなの計算なのでしょう。それは必要な知恵なのかもしれませんが、それが生きること全体の姿勢になり、全て練習や稽古や準備のつもりで、自身の人生の事実として受けとめないことにならないようにしたいものです。

今、コロナ感染を防ぐために、いろんな行事が省略されたり簡略化されたりしています。それは致し方ないことですが、生きることや人生が簡略化されたり省略されるわけではないでしょう。毎日毎日、一つ一つが私の人生です。そこにある自身の問題や生きる姿勢を問うことまで省略するなら、コロナにかこつけたずるい計算ではないでしょうか。

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