飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2021年10月22日

夏野 了 (満成寺住職)

第43話 見えないけれどもあるんだよ

先日ランニングを趣味にしてみえる方に、「タイムは取ってみえるのですか?」と伺った際「別に取ってはいません。調子のよいときはペースを上げ、不調なときはゆっくり走る。タイムを取らないことがランニングを長く続ける秘訣ですよ。」とおっしゃってみえました。

私たちは「目に見える世界」で考え行動しています。現代社会は「見える」という可視化が進んでいます。

冒頭のタイトルは、童謡詩人金子みすゞさんの「星とたんぽぽ」の詩の一節にあることばです。金子みすゞさんの詩は、生かされてあること、違うことのすばらしさなど、どれも慈愛に満ちた広く深く、そしてやさしさに溢れたことばで私達に語りかけてくれます。また、すべての命を我が命として見つめる心を持った方です。そのすべての命に平等に注がれる眼差しは、仏の心ともいえるでしょう。

この詩は、昼間の星も地中にある冬のたんぽぽの根も眼には見えませんが、

「見えないけれどもあるんだよ、見えないものでもあるんだよ、しっかり存在しているんだよ」と詠まれています。

人はそれぞれに自分の物差しを持っています。それに合わないもの、計算できないもの、あるいは、眼に見えないもの、知らないものを往々にして否定したり、遠ざけたり、無視することがあります。目には見えない学力を五段階評価で表したり、走力をタイムで表したり等々と、このことは良い面もありますが、往々に考え違いを生むことがあります。見えることに重きを置くばかりに、優越感を持ったり、自分を苦しめ、他人をも苦しめたりすることも。

しかし、この世の中は、自分の考えが及ぶことと及ばないこと、見えるものと見えないものの二つで一つなのです。その二つがあってこそはじめて全てが成り立つのです。

真宗門徒の金子みすゞさんは、念仏を喜ぶ人でした。だからこそ、仏の慈悲を「目には見えないけれど」と言われたのでしょう。そうした御心で、自分自身と周りの全てのものを見続けていかれたのだと思います。

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