飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2021年6月28日

三島清圓 (吉城組 西念寺住職)

第26話 コロナと差別

コロナは図らずもこの国の様々な問題をあぶり出した。

その中の一つに差別の問題がある。医療関係者や患者・家族に対する無知蒙昧な差別、

巣籠もり状況から発生する家庭内暴力とそこから垣間見える女性差別など

例を上げたらキリがない。

また、森元首相の女性軽視発言が「老害」という言葉で一括りにされ、

それがワクチン接種の後期高齢者優先に対する若者の不満とも重なって、

いわれのない老人差別に繋がったことは耳目に新しい。

しかしコロナがなかったらこんな差別は起きなかったのだろうかと

一度考えてみる必要がある。

ひょっとしたら私たちが元から抱えていた根深い差別心が

コロナを切っ掛けに吹き出したとも考えられるからだ。

コロナで人と人との関係が断絶したといわれる。

しかしそうならばコロナ前には私たちは人間としてほんとうに他者と繋がっていたのだろうか。

口も聞かない親と子、姑と嫁、会話の消えた夫婦、顔も忘れた向こう三軒両隣、

送って終わりというメールだけの友との会話、

そういう隙間だらけの索漠とした空間こそコロナ以前から胚胎していた

私たちのほんとうの疫病ではなかったろうか。

親鸞聖人の悪人成仏の教えは、人に差別も断絶もない聖人になれと強要する教えではない。

そうではなく、自分の差別心を悲しみ、断絶を嘆く悪人となって救われよと教えてあるのだ。

自分の持つ差別心と排他心を痛みをもって自覚した者を悪人というのである。

この痛みこそが人と人とを真に繋ぐものなのだ。

この度のコロナ禍は私たちを取り囲んでいたのは

実は「隙間だらけの索漠とした空間」だったことを

浮かび上がらせてくれた。

コロナの収束にはまだまだ時間が掛かりそうであるが、

これが収束したら今度こそ真に人を大切にして生きたい。

そして願わくはその索漠たる空間を念仏(無差別・平等の智慧と慈悲の声)で

満たしていきたいと切に思う。

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