上清水信男 (高山2組 西蓮寺衆徒)

  或る日、少年時代のお釈迦さまが、従弟の提婆と一緒に森に遊びに行かれました。

提婆は森の上を悠々飛んでいる白鳥を目ざとく見つけて、早速弓を持ち矢を放ちました。

確かにうまく当たったらしく、白鳥は飛ぶ力を失い、ばたばたと森のかなたに落ちていきます。

二人の少年は早く獲物を手にしようと、鳥の落ちた方向に向かって一斉に駆け出します。

ところがお釈迦様の方が、提婆より少し早めに傷ついた白鳥を見つけ出し、急いでそれを抱えます。

そこに提婆が現われ、「それは自分が射落としたのだから自分のものだ。自分に返せ。」と言って

お釈迦様に迫ります。

けれどもお釈迦様はお釈迦様で、これは自分が先に見つけたのだから自分のものだと言って譲ろうとしません。

こうして二人の少年の間に争いが続きますが、ついにそれでは国中の賢者を集めて、

白鳥はお釈迦様のものか、それとも提婆のものか、賢者たちに聞いてもらおうということになりました。

こうして国中の賢者が集められ、意見を求められました。

しかしその会議でも、白鳥は提婆のものだ」と言う者と、

「いやお釈迦様のものだ」と言う者と二つに分かれて、容易に意見がまとまりません。

ところが最後に、それまで黙っていた一人の年老いた賢者が立ち上がってこう言いました。

「すべてのいのちは、それを愛そう、愛そうとしている者のものであって、

それを傷つけよう傷つけようとしている者のものではないのだ」と。(釈尊の前生譚より)

この物語は、一方は愛そう愛そうとする関わり方であり、他方は傷つけよう傷つけようとする関わり方です。

実は私たちは、誰しも気づく気づかずにかかわらず、いのちを傷つけて「提婆」として生きていると思うのです。

そこに苦悩というものが起こり、その苦悩を解放するものが「釈迦」であると思うのです。

「阿弥陀経」に、「倶会一処」ということばがあります。

「倶にひとつの処で出遇う」ということです。しかし本当に都合よく出遇えるでしょうか。

「大無量寿経」に「違逆天地・不従人心」ということばがあります。

「天地に違逆し、人の心に従わず。」違は、自分は他と違い、他は自分と違ったものであると思うこと。

逆は他と思っている自分は、必ず仲違いすること。「不従人心」とは、相手の心に従わないこと。

却って相手を自分に従わせようとする生き方をせざるをえない、「提婆」的な私だということです。

私たちは、自分にとって善いもの、望ましいものを求め、他人を羨んだり妬んだりします。

自分自身に与えられたもの、頭の悪いことも、

働いても働いても貧しい生活を続けていかなければならないことも、そう簡単に引き受けることはできないのです。

その私に何が真実かを教えるもの孤独と不安から解放するものとして、「如来の智慧を賜る瞬間が起こります。」

「如来の智慧」とは、つまり「如来大悲の本願」とは、

私たちに何が真実であるかということを教えよう、明らかにしようとする願いであると。

先の物語で言えば、「如来の大悲」と言われるものは、私のいのちを、「愛そう愛そう」としているものでしょう。

私たちがいただく「念仏の信心」とは、「如来の大悲心」から、

私への賜ものとして起こるのをいただくことだと思います。